「はたらく」を現代的に再定義しよう。人間が資本に使われないために。:
多くの人々に
- 「はたらく」=「サラリーマン」
- 「はたらく」=「組織に属する」
という固定観念が存在しているように感じます。
たしかに戦後・高度成長期・現代に至るまでは、その通りでした。
戦後の日本人の暮らしが克明に描かれた書籍「花森安治選集」にはこんな描写があります。
昭和12年そのころ、同級生と会うと「会社」という言葉が出た。誰もどんなところか知らなかったがとてもいいところらしかった。
1958年はこうだったのです。現代の若者に会社のイメージを聞くと、まったく別の答えが返ってくるでしょう。
それだけ時代背景・社会背景の違いというのは大きいのです。
では現代における「はたらく」とは、どんなものがしっくり来るでしょうか。
私は原義に立ち返って「傍(はた)をらくにする」ことかなと思います。
周囲を楽にしたり、知を共有したり、なにかを与えることでだれかの光になったり。
たとえば、
- 親が体力的にすべて草刈りや雑草を抜けない時に子が精力的に代わって作業することも、はたをらくにすることでしょう。
- 農業を学んで、その過程で得たことを共有することも、はたをらくにすることでしょう。
- 資産運用など、自分の得意な分野について人々の相談に応えることも、はたをらくにすることでしょう。
- 専業主婦・専業主夫の方々は、「家族というはた」をらくにしているでしょう。
社会や人々になんらかの還元をすることは、なにも組織でしか成しえないことではありません。個人に人的資本・経験・知識・実践・学習があれば、成しえることです。
FIRE(Financial Independence Retire Early)も、「Retire」は「サラリーマンを辞めること」とほぼ同義でしょう。なぜなら、現代に至るまで「はたらく=サラリーマン」という図式が支配的だったので「リタイアする=サラリーマンを辞める」という図式も同時に成り立ちます。
つまり、「FIRE=はたらかない」ことを一義的に意味するわけではありません。現代風に言えば「FIRE=経済的に自立した上で、自由に生きる」という「自由」の中に「はたをらくにする」ことも当然含まれうるということです。
もういちど、はたをらくにする例を見てみましょう。
- 親が体力的にすべて草刈りや雑草を抜けない時に子が精力的に代わって作業することも、はたをらくにすることでしょう。
- 農業を学んで、その過程で得たことを共有することも、はたをらくにすることでしょう。
- 資産運用など、自分の得意な分野について人々の相談に応えることも、はたをらくにすることでしょう。
- 専業主婦・専業主夫の方々は、「家族というはた」をらくにしているでしょう。
上記の活動は、GDPという尺度で測ることはできません。当然ながら、人々の幸福もGDPで測ることはできません。
私たちはいつのまにか、GDP・利益・貨幣という数字に使われる側になってしまっていると思います。
その極致として、長時間労働・ブラック企業・過労死などの社会現象として表出したのだと思います。
資本による「利潤の最大化・効率化」といった要請を受け、いつのまにか資本に使われ、GDPという数字を追い求めているうちに、人々の日常・文化・牧歌的な幸福が毀損されていたのです。
都市でサラリーマンをすると、概して「満員電車に揺られて、会社ではパソコンと対峙し、疲れた身体で家を往復する」側面が少なからずあります。
これは、「効率化・利益の最大化・GDP(付加価値)の増大」には貢献します。
しかし、人間の幸福に貢献しているのでしょうか。
農業・林業・漁業・除雪・エッセンシャルワーカーなど、たとえGDPの貢献には限定的でも、
「作物や魚を取って余った分は近所で譲り合って、農作業を終えれば各人が園芸・スポーツ・文化活動など趣味に精を出して、温泉や地域コミュニティ・自然の中で仲間や家族と語らう」方が、よほど人間の幸福に貢献すると私は思います。思いますというか実感しています。
こういった生活は、貨幣・利益・効率化といったものに過度に依拠していないのです。それは、人間の幸福、そしてなにかに追われない生活に寄与すると実感しています。
時代や技術は移り変わっていくので、社会的な定義よりも、自分で時流に即して再定義をするぐらい主体的に生きることが、ますます重要になってくる時代だと思います。
私たちは、資本主義社会・自由主義経済に生きるあまり、貨幣・GDPを尺度としたものにどっぷり漬かって依存しすぎているのではないでしょうか。
近代資本主義は消費を肯定的にとらえます。「消費しないと経済は回らない」、果たして本当にそうでしょうか。物質消費の裏には、有限である地球資源の消費があることは忘れられがちです。
私は休暇を取っては、自然豊かな土地に滞在したり、登山したりしていました。そういう形で、実態が見えにくい数字とは距離を取って、人間本来の豊かさに資する自然との距離を近づけていました。
技術革新が進めば進むほど、そういった人間本来の活動の希少性と重要性が増していく、そう確信しています。